【感想】書籍『ミーニング・ノート』
私は、手帳大好き、ノート大好き人間です。
でも、3日坊主でなかなか続かないという残念な性格をしており、過去、幾度となく心ときめく手帳やノートをゲットしながらも、使いこなせずにいました。
が、今年に入ってから、本格的にミーニング・ノートに取り組み始め、まだ三週間目ですが、良い感じに続いています。
やってみて感じたことや良い意味での変化、続けられている理由などについて綴ります。
ミーニング・ノートに興味がある方、どうぞお付き合いください。
ミーニング・ノートとは…
1.1日に3つ、「チャンス」をノートに書く
2.ノートに書いた「チャンス」を見返す。
このシンプルな行動を繰り返すことで、
・自分に起きる出来事(チャンス)に価値を見出す力=「意味づけ力」がアップする
・無理に目標を立てなくても、目の前で起きていることを捉えて、変化できる
・「ないもの」ではなく「あるもの」に豊かさを感じ、幸福感が高まる
という生き方にシフトしていくことができる。
それがミーニング・ノートの醍醐味です。
「チャンス」とは何か
ミーニング・ノートでいう「チャンス」とは、良くも悪くも自分の心を大きく揺さぶられた出来事のことを言います。
悪いこともチャンスなの? と思われるかもしれませんが、悪い出来事もチャンスと捉え、意味づけ力で推進力にしてしまうのが、このミーニング・ノートの特徴です。
著者の山田氏は、当初は「嬉しいこと日記」を書いたそうです。
人生で一番絶望していた時期に、嬉しいことを見つけて書き続け、たとえどん底にいても幸せを見つけることができるのだという経験から、同じようにチャンスも見つけようと思えば見つけれるのでは? と思い、このミーニング・ノートが生まれたそうです。
大きく心を揺さぶられた出来事は、自分自身が成長するための「チャンス」。
それを見逃さないようにするのが、ミーニング・ノートの第一歩です。
「意味づけ力」という考え方
ミーニング・ノートで大事な考えのひとつに「意味づけ力」があります。
日々生活していると、良いことも悪いことも、いろんな出来事が自分自身に降りかかってきます。「意味づけ力」とは、そんな出来事に価値を見出す力のことです。
自分の心を大きく揺さぶった出来事を、「〇〇と言われて嬉しかった」で終わらせるのか、それとも「〇〇と言われて嬉しかった。私の長所は△△なのかもしれない。以後意識してみよう」とさらなる発展へと繋げるのか。
ネガティブな出来事を、「あ~ツイてない」で終わらせるのか、それとも「あ~ツイてない。でもこれはもしかしたら〇〇する絶好の機会では?」と前向きにとらえるのか。
考え方ひとつで、その後の行動が大きく変わります。
出来事に、価値や可能性をプラスする、それが「意味づけ力」と定義されるもので、ミーニング・ノートにおける重要ポイントのひとつです。
「チャンス」の繋がりを感じる
1日3つ、心が揺さぶられた出来事(チャンス)を書き、ひとつひとつに価値や可能性(意味づけ)を書き加えます。
一週間で21個、一か月で約90個のチャンスがノートには記されます。
これらはすべて自分の心が揺さぶられた出来事の数々。これらのチャンスを眺めていると、繋がりが見えてくるのだそう。その繋がりから、自分自身の成功パターンを見つけたり、夢へ向かう推進力にしたり…。
私はまだ一か月たってないので、この繋がりを感じ取ることがまだできませんが、いずれ何かしら面白いことが起きたら追記したいと思います。
やってみて感じたこと
さて、今日からミーニング・ノートを書くぞ! と意気込んでノートを開いて絶句。
…なんも書くことが浮かばん。。。
日々どれだけ漫然と過ごしていたのかということにまず衝撃を受けました。
たぶん、その都度その都度何かしら心は揺れ動いているのだと思うのですが、気を抜くとあっという間に忘却の彼方へと連れ去られていくんですよね。
ちなみに、この本では、常にミーニング・ノートを持ち歩き、チャンスだと思ったらすぐに書きましょうということが書かれていますが、うっかりロルバーンダイアリーを使ってしまった私は、んな重いノートは持ち歩けるかい! ということで、同時進行で『マイノート』を始めました。
こちらはうっすくてやっすいA5のノートなので、殴り書きしたり、一日を振り返って起きた様々な出来事について思いの丈を書き留めたりして、そのなかから3つ選んでミーニング・ノートに転記しています。
これ、結構いい感じです。
私、書き始めると長々と書いちゃうんですよね。ミーニング・ノートは1ページに7日分のチャンス、つまり21個のチャンスを書かないといけないので、だいたい1チャンスにつき2行ぐらいしか書けないのです。そうすると、本当にコンパクトにまとめないといけない。
『マイノート』にダラダラ書き連ねたことを『ミーニング・ノート』にすっきりとまとめる。
おおーいいじゃんいいじゃん。
日々の生活は小さな出来事の積み重ねの連続であり、そのひとつひとつに目を向けて、意味を考えるようになったことはとてもいいことだなと思います。
そんなわけで、結構いい感じに続いています。
あと、やってて注意が必要だなと感じたのは、ただの日記(覚書、メモ)にならないようにすること。慣れないうちは、なかなか意味づけまできっちり書けることが少ないです。
そのためにも、起きたこと(事実)→どう感じたか(主観)をきっちりわけて、最後にしっかりとそのチャンスをどう生かすか(=意味づけするか)ということを意識しながら書く必要があります。
なので、途中から3色ボールペンを応用して、事実(黒)、感じたこと(緑)、チャンス(赤)で色分けすることにしました。でも、あまりにもカラフルでごちゃごちゃになったので、ある程度できるようになったなと思った瞬間に辞めました。ははは…
まとめ
そんなわけで、何気ない日常に目を向けてさりげない出来事から可能性を見出すという『ミーニング・ノート』は、忙しい毎日を送る人たちにはもちろん、毎日同じことの繰り返しよ…と悶々過ごされている方にもぜひチャレンジしてほしいなと思います。
自分が何に関心を持っているのか、何を大事に思っているのか、意外と自分自身で知らないことが、ミーニング・ノートに書くことで気づいたりします。
このミーニング・ノートでどんなチャンスが繋がってどんな未来につながるのか、ワクワクしながら続けたいと思います。
【感想】小説『むらさきのスカートの女』(ネタバレあり)
今村夏子による2019年芥川賞受賞作品。
『あひる』に続いて2作目の今村作品です。
初めて読んだ『あひる』で今村ワールドに憑りつかれたわけですが、今回もまたじわじわとくる何とも言えない違和感というか人間の不気味さみたいなものを堪能しました。
純文学に憧れるけどあまり純文学を読めない人間による感想です。
あらすじ
近所の商店街には有名な「むらさきのスカートの女」がいる。「わたし」はその「むらさきのスカートの女」と友達になりたい。友達になるために、「むらさきのスカートの女」の行動を監視しつつ、やがて自分と同じ職場に就職するように誘導し、それは成功するのだけど…
おまえは誰だ
今回を含めて今村作品を2作しか読んだことがないので、比較対象が『あひる』しかないのですが、私は今回も思いました。
一人称「わたし」で淡々と紡がれる日常の描写。そう、「わたし」。「わたし」よ、おまえだよ、おまえ。
お ま え は 誰 だ 。
『あひる』では、まるで空気のように、存在するのに存在しないかのような人。
『むらさきのスカートの女』でも、「わたし」の視点で語られる対象はもっぱら「むらさきのスカートの女」であり、「わたし」の存在についてはまるで影のように出てこない。
主人公であるはずの「わたし」が、まず恐怖の対象のひとつなってしまう。
そして『むらさきのスカートの女』では、「わたし」の目を通して「むらさきのスカートの女」の行動や観察が事細かに綴られていく。三人称小説ではなくて、これは一人称小説である。なぜこの「わたし」がまるで「神」のような視点を持っているのか。そんな「わたし」にさらに恐怖を抱く。
そしてそして、「むらさきのスカートの女」に対する「わたし」が取る行動そのものにも恐怖でしかない。ストーカーとでもいうのだろうか。「むらさきのスカートの女」と友達になりたいはずの「わたし」の、明らかに友達にすることとはいえない行動。
「わたし」よ、本当におまえは誰なんだ。
その問いに「権藤さん」と答えるのはナンセンスである。
そんなことをきいているんじゃない。おまえは何をしたいんだ、という問いかけなのです。
「わたし」がしたかったことって何なのか
「わたし」の目的は「むらさきのスカートの女」と友達になること。
でも本当は嘘だと思う。「わたし」は「むらさきのスカートの女」になりたかったのだろうと思う。
友達になりたいと思っている相手に対し、友達になろうという行動をちっともとらない「わたし」。それどころか、クエスチョンマーク連続の行動の数々。
自分と似たような、あたかも自分の分身のような「むらさきのスカートの女」に親近感を抱いたのは間違いないけれど、日に日に輝いていく「むらさきのスカートの女」に、いつしか「わたし」は「むらさきのスカートの女」になることを、意識的か無意識的かわからないけれど夢見ていたのではないか。
最終的に、ずっと影にいた「わたし」は、まんまと「むらさきのスカートの女」から「きいろいカーディガンの女」へとすり替わっている。「わたし」はとうとう肩をたたかれる存在へとなったのだ。
「存在する」ということ
うまくいえないのだけれど。
「わたし」の一人称視点で語られる「むらさきのスカートの女」。作品を通して、「むらさきのスカートの女」の印象はどんどん変化していく。その変化の大きさに困惑するほどだ。それほど印象的に描かれていた「むらさきのスカートの女」は、最後には消えてしまう。まるで死んでしまったかのように。
一方で「わたし」は、ずっとそこにいるのにそこに「いない」。「わたし」が世間的に登場するのは、最後の最後だ。それは新たに生命を得たかのように輝いて見える。
科学の話だったか似非科学の話だったか忘れたけれど、この宇宙は人間が認識して初めて登場した、というのを読んだことがある。そこに「ある」のは、人が「ある」ということを認識するからだ。「ある」ということを認識しなければ、それはそこには存在しない。
「わたし」は、とにかく存在しない人間だった。それが、「肩をたたかれる」という第三者の行為によって、そこに「存在する」こととなった。
一方「むらさきのスカートの女」は誰も存在を認識しなくなったことにより「消えた」。本当はどこかで生きているのだろうけれど。
つまり何を言いたいのかというと、ヒトというのは、第三者の存在があって成り立つのだということ。そして第三者の視点で形作られるということ。
「わたし」という人間は確かにそこには存在しているのに「いない」というのはどういうことなのか。
この本を読んで、私は背中が寒くなってしまった。
あと、「むらさきのスカートの女」を見ていて、今村氏と同じく芥川賞受賞作家である平野啓一郎氏が提唱する『分人主義』を思い出してしまった。それぞれ所属するコミュニティにあわせて複数の顔を持つ=複数の人格を持つととらえて、それらすべてを「本当の自分」ととらえるものだが、外から見るとこういう感じになるのかも…と思った次第です
この本もとても面白かったので、興味のある人は読んでみてください。
余談
今村作品は、とにかく難しい言葉がなくて、こねくり回したかのような凝りに凝った表現とかもなく、とにかく読みやすいです。
だからこそ、その奥底に潜む人間の違和感や不気味さをストレートに感じることができます。
『あひる』では「わたし」の没個性(誰も自分に興味を抱かない)が、「あひる」という対象の違和感を浮き上がらせていましたが、今回の『むらさきのスカートの女』では、「わたし」の没個性(誰も自分に興味を抱かない)が、「むらさきのスカートの女」以上に「わたし」に対する違和感を浮き上がらせていました。おもしろいなー
でもこういうトリック?的な書き方って面白いかも。
私も習作でこんな小説書いてみようかなー。
書いてみたらどこかにアップしますので、感想ください(時期は未定)。
【感想】漫画『進撃の巨人』ネタバレありまくり
今っさらですが、『進撃の巨人』全34巻を読破しました。
これほど読んでいてツライ漫画は初めて。
最初から最後までとにかく人が死にまくるし、正義はないし、救いはないしで、とにかくツライ漫画でした。
そしていろいろ考えさせられた漫画。
『進撃の巨人』について感想をまとめましたので、興味ある方はどうぞ最後までお付き合いください。
注意:包み隠さずネタバレしておりますので、未読の方はスルーしましょう。
あらすじ
突如出現した「巨人」により人類は滅亡の淵に立たされた。生き残った人類は巨大な三重の城壁を築き、その内側で100年間、わずかばかりの安寧のひとときを過ごしていた。エレン・イェーガーは壁の中での生活に疑問を感じ、壁の外の世界への憧れとそれを阻む巨人への憎しみを募らせる。845年、超大型巨人が現れ、一番端の壁である「ウォール・マリア」が突破されてしまう。侵入した巨人により目の前で母親を食い殺されたエレンは、巨人をこの世から駆逐することを誓う。
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目次
どこまでいっても救いのない話
とにかく人が死ぬ。死ぬ。死にまくる。
最初は巨人だけが敵で、巨人だけを殺せばよかった。思えばここが一番平和だったかも。けれどもそのうち人間同士が争い、やがては世界と争う。争ってばかり、殺しあってばかり。みんな死んでしまう。
某有名SF小説のように『〇千名が死んだ』とかではなく、ダイレクトに死が表現される。いくら高い志や熱い理念を抱いていようと、人が死ぬときはいとも簡単に死ぬものだ。
シャーキス教官は助けた訓練兵の若者に、「イェーガー派に背くな、いつか立ちあがる日まで自分を見失うな」と言葉を残すが、その言葉の日が訪れたのかどうかはわからない。訪れずに終わったかもしれないし、訪れたが失敗したかもしれない。もしくは遠い未来に成功したかもしれない。若者を導いたシャーキス教官だが、ひっそりとハンジたちを助け、船で亡くなったということを知る者は誰もいないのではないか?
この世に生を受けたからには、自分がいたという証を残したいと考える人は多いだろう。この世界にそれなりの痕跡を残したり、自分が存在する意味を見出したいと、人々は日々足掻く。
だけど実際は、多くの人が「その他大勢」もしくは「名もなき人」として消えていく。いつ死んだのか気づかれなかったり、そもそもそこに存在していたことさえ気づかれないこともあるかもしれない。
リヴァイも、ケニーが訪れなかったら、そこに存在していたことを誰にも気づかれずにひっそりと死んでいったかもしれないのだ。
でもそれは現実で、世界のリアルでもある。正直に言うと、この世に救いはない。呑気に待っていれば神のご加護があるなんてムシのいい話はない。きっかけはあるだろう。そのきっかけを掴み、立ち上がって、自らで動かないと「救い」を手に入れることはできない。
作中では、それを「戦え、戦え」という言葉で表現される。戦わなければ死ぬ。掴み取らなければ生き残れない。過酷さの度合いは異なるが、漫画というフィクションの中に、我々がふだん目を背けている現実がちらりちらりと覗く。
正義なんてない
絶対的な正義なんてものはこの世には存在しない。言い換えれば、人の数だけ正義が存在する。
ドラクエのように、勇者がいて、倒すべき悪役がいて、敵を倒したら世界平和になりましためでたしめでたし、なんて物語はしょせん夢物語なのだと突きつけられる。
巨人の力を消すために世界を滅ぼそうとしたエレンもエレンにとっては正義。
そんなエレンの心を知らず妄信的に追随した信者もその人にとっては正義。
そんなジークに希望を見た人もその人にとっては正義。
エルディア人の罪を意識し善良になろうと足掻き続けた人もその人にとっては正義。
パラディ島だけが生き延びればいいという考えに断固反対し立ち上がった人も、その人なりに考え抜いた末の正義。
世界は正義と正義のぶつかり合い。自らが正しいを信じて、それを勝ち取るために戦う。それが争いを生み出すのだと突きつけられる。人から争いを消すことはできないのだと、突きつけられる。
『進撃の巨人』の世界は、そんな正義のぶつかり合いで、だからこそ切なくて苦しい。誰しもがより良い未来を求めて戦っているのに、どうして誰も平和に暮らせないのだろう。
救いがあるとすれば、それは「愛」かもしれない
こうやって書くととっても陳腐なのだけど。
この物語に救いを見出すとしたら、やはり「愛」なんじゃなかろうかと思う。というより、こんなにもツライ世界だからこそ、誰かが誰かを思いやる「愛」であってほしいと私は思いたい。
物語中、誰しもが誰かを思いやっていたり、恋心を抱いていたり、愛していたりする。それは恋人だったり、家族だったり、同志だったり。ときにはすれ違ったりもするけれど、誰かは誰かを想い、その想いは他の誰かへと託されていく。
それは悲しいけれども、とても美しいと思った。
奴隷だった始祖ユミルは、フリッツ王を愛していた。エレンとジークのどちらを選ぶか迫られたとき、ユミルはエレンを選んだ。王家の人間に忠実であったユミルは、初めて自分自身を認めてくれたエレンに心動かされたと同時に、やはり自分たちの子孫、自身と愛したフリッツ王との子どもたち=ユミルの民を失いたくないからなのだと思った。
そして、ミカサが自分の愛するエレンを討ち取ってその亡骸に口づけを交わしたとき、ユミルの心は吹っ切れたのだと思う。本当の愛とは何なのか―—ユミルは巨人の力で王の愛を繋ぎとめることを止めた。そして、この世界の大いなる悲しみであった巨人の力は失われた。
ヒストリアの子どもが出てくる。子どもは愛の形だ。そしてミカサは結婚して子どもを授かっている。愛する人を自らの手で葬ったミカサを受け入れて、その傷ついた心を癒してくれた人がいたのだろう。そして幾度かの平和と戦争ののち、再び見たことのある光景が広がる。
ひとりの少年が近づく。歴史は繰り返す、という暗示かもしれない。でもその少年がミカサの子孫だったら? ヒストリアの子孫だったら?
エレンの魂が宿る木だ。もしかしたら今度はまったく違う物語が紡がれるのかもしれない。それは、我々読者の想像に委ねられているけれど、私は、今度こそ平和が訪れる物語になると信じたい。
まとめ
現実のツライ世界をとことん突きつけてくれた漫画でした。21世紀になってもなくならない戦争、消えていく命、その根本を考えさせられました。
世界を変えるのはたった一人の巨大な力を持った英雄ではなく、小さな力を持ったひとりひとりの集まり=意思なのだと感じます。
ひとりひとりの考えが集まり、それが力を持ち、大きなうねりとなる。その大きなうねりが、争いではなく、平和に繋がることを夢見たいものです。
最後にこれだけは言わせて
ここからは完全な私の心の叫び。考察とか一切ないので興味ない方はスルー。
分量が多すぎやしないかって? いや、当たり前だろ(真顔)。
というわけで、『進撃の巨人』で誰が一番好きかといわれると、ハンジさん一択。ハンジさん好き。ハンジさんラブ。ハンジさんマジリスペクト。
そもそも調査兵団大好き。エルヴィンやリヴァイ好き好き。でもハンジさんが一番好き。
漫画のなかでは巨人やらアッカーマンやら、ついでに頭がいいとか頭がキレるとか人を見る目がハンパないとかこいつ名探偵かというような人間離れした連中がわんさかおりますが、そのなかではわりと普通?寄りで、悩むし愚痴はこぼすし、けれども決して諦めないというめっちゃカッコいい女性です。巨人マニアだし、拷問もできるし、治療もできるし、料理もできる! なーんでもできちゃう変人です。
なので、退場シーンは号泣でしたよ、号泣。
世界を救うためにひとりで巨人に立ち向かい、巨人の美しさにため息をつき、そして散る。「じゃあな、ハンジ。見ててくれ」なーんて、リヴァイのセリフにただただ号泣。
最後の最後まで飛空艇を気にして、そしてエルヴィンたちに再会して……やっぱり愚痴をこぼして。。。涙笑涙笑(←どっちかにしろ)。「ゆっくり話をきくよ」だなんて、ハンジの苦悩なんて365日あっても語りつくせないわよ!
私の中で死ななないであろうキャラクターとして、ミカサ、アルミンが筆頭(こいつら死んだらダメだろ)で、次席にリヴァイ(アッカーマンだから)、ハンジは微妙、という立ち位置だったのですが、やっぱり退場しちゃったかあー。ハンジさんには生きててほしかったな。でも散々苦悩してたから、めんどくさいことは後進に道を譲って地獄から解放でも良かったのかな。生きてたら絶対アルミンたちとめんどくさい会議とかするハメになりそうだしね。
ちなみにエレンは途中から私の中で死亡認定していました。そうしないとこの大風呂敷を広げまくった物語は収束しないでしょ。
そうそう、単行本に収録されているニセ次巻予告。ハンジさんが好きすぎた私はニセの予告を真に受けて、ほんっっとに楽しみにしてたんですよ。そしたら「え? あのエピソードなくない?」と……。ニセモノだと気づいてめっちゃガッカリしました。私のドキドキ返して。
ニセの次回予告の流れで、『進撃のスクールカースト』の話を。
マルコの回が秀逸。そして始祖ユミルが出てきたあたりから、本編の深刻さと相まってシュールさ爆発。笑いました。こういうノリ大好きです。
そしてノリといえば。
漫画を読んでいたちょうど同じ時期に、YouTubeでアニメ『進撃の巨人』の1stシーズンが全話無料公開されていたので見ていました。そしたらね、「あなたへのおすすめ」で日清と『進撃の巨人』のコラボ動画が出てきて……やべえわこれ。あまりにもぶっ飛びすぎてて楽しくて、一週間くらい毎日飽きずに見てました。
こういうノリは大好物です。世界観ぶっ壊すので苦手な人もいるかもしれませんが、私はどんどんやってほしい派。全力で企画を作って全力で動画を作って全力で声を吹き込んでくれた全スタッフに心から感謝します。
いやーハンジさん好き。こんな人が上司だったら、全力でついていきます。
以上、私の心の叫びでした。
- 読書期間:2022年12月28日~2023年1月8日
- オススメ度:MAX
- 読んだ後のロス感:強
- 続編があったら読みたい度:強
- アニメへの期待:すっごいキレイだしOPカッコいいよ!
【お題】人生を振り返りながら思い出す「高い買い物」
今週のお題「人生で一番高い買い物」
こんにちは。rokubeです。
トシを取ると、そのぶん「人生で一番高い買い物」がどんどん更新されていくものです。そんなわけで、それぞれの年代で一番高い買い物を思い出してみました。
さあ、いってみよー!
人生ひとケタ代
…覚えとらんがな(爆)。しかも何かしら買ったとしても自分のお金ではないから…。というわけで、パス!! いきなりミスった感がハンパないw
青の10代
ううーん、これもビミョー(汗)。しかもバイトらしいバイトもしてなかったので…。
お年玉&お小遣いを貯めて買ったものなんて、たかが知れてるよね。
なんとなく、コピックとか、同人誌の印刷代が一番高かったのでは…(←黒歴史)。
華の20代
華かどうかはおいといて。
これは覚えてます。働き始めて最初の1年間、月10を目標に貯めに貯めまくって買ったもの。
ずばり、ヴァイオリン!!
それまでは母が子供の頃に親に三千円(注・当時の価格)で買ってもらったというヴァイオリンを使っていましたが、それがあんまりだというので、オケの先輩方からお古のヴァイオリンをお借りしていました。だけど自分のがどうしても欲しくて。
購入したのは、20世紀初めくらいにパリで作られたヴァイオリン。当時習っていた先生のツテで探していただきました。先生、その節はありがとうございました。
手に入れたときは嬉しかったなー。当時は一生の宝モンだと思って大事に大事にしておりましたが、今は実家の仏間に眠っております。いつかまた弾きたいな。
翳る30代
みなさーん、30代はどうでしたかー?
そんなわけで、ここらへんに私の「人生で一番高い買い物」が登場します。それは2代目愛車・ヴェゼル!
ああああああ、ヴァイオリンよりインパクトなくてごめんなさい。でも発売して間もなく新車で買ったんですもの。そりゃあ高いわ。
それまでは中古のムーブを10年以上乗り回していましたが、そろそろカッコよくて強そうな車が欲しい…ということで、まったく車を知らない私があれこれ調べて一目ぼれしたのがこのホンダ・ヴェゼルでした。
軽自動車からの乗り換えで最初は苦労しましたが、運転苦手な私はこの車でいろんなところにドライブに行きました。納車されて間もなく、同じヴェゼルとすれ違ったとき、相手の方と目が合ってお互いニヤリとしてしまったのが良い思い出です笑。
こちらは5年くらい乗ったのかな? 結婚を機に手放しました。そして今はもっとコンパクトな中古の車に乗り換え…。私にとっては若気の至りでした(30代だけどな!)
未知(斜陽)の40代
さてさて、人によっては「家」とか「治療代」とか「慰謝料」とか出てきそうではありますが…。残念ながら(ありがたいことに?)、私はまだ何かに大金をつぎ込む予定はありません。
むしろ仕事辞めたくて辞めたくて仕方のない時期。お財布の紐もがっちりしめております笑。願わくば、自分にとって最高に良いお金の使い方をしたいですね。
さてさて、こんな感じでさらっと自分の人生を振り返ってみましたが、人生ひとケタ代、やはり自分の自由になるお金がなかったせいか、何を買ったのか意外と覚えていないものですね。マンガ本を買ってもらって嬉しかった、CDを買ってもらって嬉しかった、ゲームを買ってもらって嬉しかった…平和だ。
みなさんも人生を何にお金を使ったのか思い出しながら人生を振り返ってみるのも楽しいかもしれませんね!
それでは最後までお付き合いいただきありがとうございました~
rokube