【感想】小説『むらさきのスカートの女』(ネタバレあり)

今村夏子による2019年芥川賞受賞作品。
『あひる』に続いて2作目の今村作品です。


初めて読んだ『あひる』で今村ワールドに憑りつかれたわけですが、今回もまたじわじわとくる何とも言えない違和感というか人間の不気味さみたいなものを堪能しました。
純文学に憧れるけどあまり純文学を読めない人間による感想です。

 

あらすじ
近所の商店街には有名な「むらさきのスカートの女」がいる。「わたし」はその「むらさきのスカートの女」と友達になりたい。友達になるために、「むらさきのスカートの女」の行動を監視しつつ、やがて自分と同じ職場に就職するように誘導し、それは成功するのだけど…


おまえは誰だ

今回を含めて今村作品を2作しか読んだことがないので、比較対象が『あひる』しかないのですが、私は今回も思いました。
一人称「わたし」で淡々と紡がれる日常の描写。そう、「わたし」。「わたし」よ、おまえだよ、おまえ。

お ま え は 誰 だ 。

『あひる』では、まるで空気のように、存在するのに存在しないかのような人。
『むらさきのスカートの女』でも、「わたし」の視点で語られる対象はもっぱら「むらさきのスカートの女」であり、「わたし」の存在についてはまるで影のように出てこない。
主人公であるはずの「わたし」が、まず恐怖の対象のひとつなってしまう。

そして『むらさきのスカートの女』では、「わたし」の目を通して「むらさきのスカートの女」の行動や観察が事細かに綴られていく。三人称小説ではなくて、これは一人称小説である。なぜこの「わたし」がまるで「神」のような視点を持っているのか。そんな「わたし」にさらに恐怖を抱く。

そしてそして、「むらさきのスカートの女」に対する「わたし」が取る行動そのものにも恐怖でしかない。ストーカーとでもいうのだろうか。「むらさきのスカートの女」と友達になりたいはずの「わたし」の、明らかに友達にすることとはいえない行動。
「わたし」よ、本当におまえは誰なんだ。

その問いに「権藤さん」と答えるのはナンセンスである。
そんなことをきいているんじゃない。おまえは何をしたいんだ、という問いかけなのです。


「わたし」がしたかったことって何なのか

「わたし」の目的は「むらさきのスカートの女」と友達になること。
でも本当は嘘だと思う。「わたし」は「むらさきのスカートの女」になりたかったのだろうと思う。
友達になりたいと思っている相手に対し、友達になろうという行動をちっともとらない「わたし」。それどころか、クエスチョンマーク連続の行動の数々。

自分と似たような、あたかも自分の分身のような「むらさきのスカートの女」に親近感を抱いたのは間違いないけれど、日に日に輝いていく「むらさきのスカートの女」に、いつしか「わたし」は「むらさきのスカートの女」になることを、意識的か無意識的かわからないけれど夢見ていたのではないか。

最終的に、ずっと影にいた「わたし」は、まんまと「むらさきのスカートの女」から「きいろいカーディガンの女」へとすり替わっている。「わたし」はとうとう肩をたたかれる存在へとなったのだ。


「存在する」ということ

うまくいえないのだけれど。

「わたし」の一人称視点で語られる「むらさきのスカートの女」。作品を通して、「むらさきのスカートの女」の印象はどんどん変化していく。その変化の大きさに困惑するほどだ。それほど印象的に描かれていた「むらさきのスカートの女」は、最後には消えてしまう。まるで死んでしまったかのように。

一方で「わたし」は、ずっとそこにいるのにそこに「いない」。「わたし」が世間的に登場するのは、最後の最後だ。それは新たに生命を得たかのように輝いて見える。

科学の話だったか似非科学の話だったか忘れたけれど、この宇宙は人間が認識して初めて登場した、というのを読んだことがある。そこに「ある」のは、人が「ある」ということを認識するからだ。「ある」ということを認識しなければ、それはそこには存在しない。

「わたし」は、とにかく存在しない人間だった。それが、「肩をたたかれる」という第三者の行為によって、そこに「存在する」こととなった。
一方「むらさきのスカートの女」は誰も存在を認識しなくなったことにより「消えた」。本当はどこかで生きているのだろうけれど。

つまり何を言いたいのかというと、ヒトというのは、第三者の存在があって成り立つのだということ。そして第三者の視点で形作られるということ。
「わたし」という人間は確かにそこには存在しているのに「いない」というのはどういうことなのか。
この本を読んで、私は背中が寒くなってしまった。

あと、「むらさきのスカートの女」を見ていて、今村氏と同じく芥川賞受賞作家である平野啓一郎氏が提唱する『分人主義』を思い出してしまった。それぞれ所属するコミュニティにあわせて複数の顔を持つ=複数の人格を持つととらえて、それらすべてを「本当の自分」ととらえるものだが、外から見るとこういう感じになるのかも…と思った次第です

この本もとても面白かったので、興味のある人は読んでみてください。


余談

今村作品は、とにかく難しい言葉がなくて、こねくり回したかのような凝りに凝った表現とかもなく、とにかく読みやすいです。
だからこそ、その奥底に潜む人間の違和感や不気味さをストレートに感じることができます。

『あひる』では「わたし」の没個性(誰も自分に興味を抱かない)が、「あひる」という対象の違和感を浮き上がらせていましたが、今回の『むらさきのスカートの女』では、「わたし」の没個性(誰も自分に興味を抱かない)が、「むらさきのスカートの女」以上に「わたし」に対する違和感を浮き上がらせていました。おもしろいなー

でもこういうトリック?的な書き方って面白いかも。
私も習作でこんな小説書いてみようかなー。
書いてみたらどこかにアップしますので、感想ください(時期は未定)。